泣いた魚の哲学⑥仮題
「だいぶ遠くへ来たもんだ」
船長さんは舳先に向かって呟いて、
餌と釣り具を辻さんに渡しました。
船は深呼吸するためにゆっくりと揺れると、
波に任せて海の底に引き寄せられ、
また青い空の下に戻されるように左右に動きました。
辻さんは波に逆らってしゃんと立ち、針に餌を刺すと、
体を大きくのけぞって糸を遠くへ放ちました。
今日の乗合船乗客は彼女一人だけでしたので、
立ち位置は自由に選べます。
魚の多い方へ糸を落とせば、
「釣れるかもよ」
と大漁を祈りました。
また、一人の客のために船を出した船長さんが、
「今日はあんたと組んで良かった」
と言ってくれる魚に出会いたいとも思ったのです。
ところが不漁でした。
アジやイワシも数匹しか獲れず、たまに小さなカレイ、カワハギが掛かりました。
「海は、、からだよ」
と彼は独り言をいうと、煙草をぷかぷかと吸い始めました。
「いいえ、海は魚の街。耳を澄ませば居る」
と、辻さんは舷(げん)から顔を突き出して海の表面の底を見据えました。
それから釣った数匹の魚を生簀(いけす)に流し、
すぐ横の大きなバケツはからっぽになってずいぶん時間が経ちました。
「今日の魚は皆賢いんじゃないかしら?餌に引っかかるような真似はしない」
と辻さんは考えました。
「私を海に、否、魚に解らせないのが一番でしょ。ならば、どうする?」