東京交響楽団 コンサートマスター ミロスラフマティアス氏との出会い
今から60年以上前に私におきたことです。
小学校5年前後1957年ごろから、
私は毎週日曜日7時半か?8時からかな?
東京交響楽団の演奏番組があり、それを聴くのが楽しみで
時間が来ると欠かさずテレビにかじりついていました。
昭和33年小学校終わり1957年頃でしたか、
交響楽団第1バイオリン コンサートマスターのミロスラフマティアス氏が
任期を終えて母国チェコスロヴァキアに帰るインタビューがあり、
楽しみだったし、寂しくなると彼に今までの御礼を込めて手紙を書きましたよ。
その年、中学1年1958年4月
彼から手紙が届き、
日比谷音楽堂で彼の最後のコンサートが開かれると日本語で書いてあり、
手紙の中にチケットが2枚入っていました。
しかも2階席の1番前の中央席でした。
当時の日比谷音楽堂は音響設備があまり良くなく、
日比谷音楽堂で音が一番よく響く席で楽団が見渡せる席は
2階真ん中と勝手に思っていましたので、
封筒のチケットを見た時の喜びは語りつくせませんでした。
中学1年でしたが、お土産を探し求めて銀座を歩き回り金色の塔を買いました。
コンサートが終わり、楽団員が帰る通路を教えてもらい、
そこで、チケットの御礼とおみやげを渡そうと待ちました。
長い時間でした。
みんなが帰ってしばらくすると
3~4人の大きな体格の外人たちと日本人が歩いて来て、
通りすぎようとしたとき、
私はうしろから背の高い外国人にとんとんと手を当てました。
彼は振り返り、私は、KUNIKO、と小さな声で言うと
笑顔で何か話かけて来て、
笑顔で握手し、私は緊張した顔のまま、
恐る恐るプレゼントを渡しました。
それだけのことですが、60年経った今でも鮮明に思い出します。
その後東京交響楽団の番組は終わり、
長い月日が過ぎましたが、
日曜日の朝とミロスラフマティアスさんとの一瞬の出会いは
子供時代の貴重な過ぎ去りし日となり、
いつでも取り出せる心の中の引き出し入っています。
彼はご健在でしょうか?