不動産屋を始めたグランマの絵のない絵本創作 

挿絵を書いてください。一緒に絵本を創りませんか。連絡を下さい。

蟻の街 ゼノ神父様 戦後まもなく貧しさは渦を巻いて身近にありました

私は子どもの頃なりたかった夢はいくつかあります。

小学生の頃は、

雲が高い上空で風を受けて移動する悠々さを眺めて

雲を研究する学者になりたいと思いました。

中学生の頃は、

蟻の街のマリアが新聞に載った時北原怜子さんに感動し、

私も福祉を勉強して、

貧しい人や子供たちを救いたいと思いました。

1946年生まれですが、

小学生の頃は戦争孤児や家を失った人たちが

たくさん道路にたむろしていました。

祖父母の家に行くために、渋谷から銀座線で浅草まで行き、

地下道を通ってに東武線開札口に行く途中の地下通路両サイドに

人々がござを敷いて寝ていたりしていました。

たくさんいましたよ。

地上に上がると

時々都のバスに道路生活の子どもや大人たちを収容と言うか

乗せているのをよく見かけました。

あの頃は戦後まもなく、貧しさは渦を巻いて身近にありました。

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北原怜子さん Br. Zenon Żebrowski, 1959

 

蟻の街は(ありのまち)とは、1950年(昭和25年)1月頃、現在隅田公園(東京都墨田区)の一角で、言問橋(ことといばし)のそばにあった廃品仕切場および「の会」という労働者の生活協同体があったので、その一帯を言います。

ゼノ神父様と北原怜子さんと数名の方々が

蟻の街で生活を続けて人々の手助けをされていました。

北原さんが結核を患い腎臓病で若くして亡くなられました。

 

しばらくして私は何か手伝えればと手紙を出しました。

今思い返して一番心に深く後悔というか

胸に哀しく残る残念な思い出として残っています。

意を決して飛び込む決意もないのに、

何かできればと簡単に考えた私の浅はかさです。

 

その手紙、たった1枚の手紙でしたのに、

ゼノ神父様が突然、私の学校にいらっしゃったのです。

しかも、校長室に行き、先生方とお話しし、

その後私のクラスにお見えになり何か話され、

クラスがお祭り騒ぎみたいな感じで終わりました。

一緒に写真を撮ってそれでお帰りになられました。

そのあとはそれだけのことで、、終わりました。

私は何も話さず、生徒の一人としてお迎えして、

それで終わりました。

 

あの頃、戦後しばらくの、

あの貧しさは今はどこにも見当たりません。

が、新たな貧困が、

しかも目に見えないところで

確実に存在していると

グランマは思うのです。

それじゃあ、グランマは今何をすればいい?